潮阳英歌
  2006-10-18

  潮阳英歌の形成1、祭祀や魔除けに関係がある 出土する新石器や銅容盂孤山晋墓の文物から見て、地元の越族文化と中原文化の中の傩文化と祭祀は英歌の源になる。

  潮陽は山によって海に望んで、自然環境が非常に厳しいほかに災害に年間に何度も見舞われる。条件に限られて自然への抵抗力は弱いので物神崇拝を生んだ。力がなくて、祭祀は災難を免れて災いをなくすことを願うために行われた。唐元和十四年に潮州の州長官の韓愈は人を派遣して今の悔门镇之大湖祭神にきて神に弔いをした。「吹击管鼓侑香洁也」という記録がある。明嘉靖卅六年「鬼物(马精)奔腾附行」「吾邑烽火不绝.炮鼓之声相闻」という記録によると、今の英歌の芸人たちが使う仮面は以前祭祀する踊りに使う仮面から簡略化したものだ。南山英歌は舞台の前に小太鼓を打つ習慣がある。今なお英歌は依然として神に泳いで邪気を追い払うことに参加する。こういうことは英歌の形成が祭祀や魔よけと関係があると説明する。

  しかも潮陽には双忠烈の士に祭りを営む習慣もある。「邑城每年二会双忠会有锦衣舞马之欢」という記録もある。今、英歌で舞台の後ろに「拍布马」するという習慣はここから生んだかもしれません。しかし、英歌の行進や英雄の気勢はこの習慣に関係があるに決まっている。儒学で孔子への祭式について「用舞生三十六人」「左手执签右手秉翟。舞者用簇节二架朱竿龙首衍五色线九节舞长执之以缀兆疾徐行立追止之则以道舞焉者。」という記録もある。祭式に使う「籤」は今英歌のメンバーが使う短い木の棒の源となるかもしれない。そのほか隊形の変換は祭式から啓発を得て形成した可能性もある。そのため、英歌はきわめて研究する価値のあるみかん芸術だ。2、福建の文化の影響を受けた  宋元の初めから、福建文化はだんだん潮汕地方に伝わってきて、その後潮陽まで至った。宋元の時代に福建は人種が大いに引っ越す時の乗り換え駅になったため、官吏者は移住してきて福建文化を潮陽に持ってくる。歌う英歌と言われる西臚尖山英歌(`97潮陽の英歌の芸術祭の時この隊が時間が足りなくて英歌の歌の部分は出演していなかった)がある。こういう英歌のメンバーは小太鼓を持って、ばらばらな足取りで出演する光景は莆田花鼓舞の出演でも見られるという。同時に莆田は潮陽の多くの名字の発祥地と見られる。だから、福建の文化はだんだん潮陽の英歌の形成の重要な要素といえよう。3、芝居や民間の踊りも英歌の形成の要素だ明の時代、「潮陽俗尚戏剧」という言い方がある。そのとき、舞台や土台があって、「涂戏」もやられた。ここからして英歌の前身は「说唱」と見られる。だんだん今のような行進にふさわしい情緒の舞踊に形成してきた。「正月十五日,有善歌者自为侪伍,妆演方阵迹,迎神衍巷」「为赛神灵沸管笙签,衣香簇影满春城。」という記録がある。今英歌を出演する時に、後ろの舞台の潮劇の伴奏(例えば、「桃花过渡」「双摇槽」「仙公仙母」)と伴に芸人たちが歴史上の有名人を演じたり民間踊りを踊ったり武術の実演をしたりする。だから、英歌は踊りと戯曲と武術の精華の塊といえよう。

  4、英歌の流派の形成歴史や地理(学)の原因で、潮陽の英歌は遅板、中板、快板の三大分類に形成する。

  遅板:技法には三槌と四槌がある。槌の長さは1。6~1。8尺だ。普通、槌を一組み打つと「糙」を一回回す。これは「酔槌」と呼ばれる。銅鑼と太鼓が組み合わせてセットにして低音の大陣太鼓、銅鑼、蘇鑼、大きさのはつがあって、発音のリズムは緩慢で、宮廷の官吏が神に視察に出るか泳いで根回しをするようで、大陣太鼓と江蘇の銅鑼が音響を出してまた古典の宮廷の特色があってる。宋江や時遷などの梁山好漢を演じないのは《水滸》という伝統的な演劇の影響を受けていないからだ。このように、遅板英歌は祭祀踊りと民間の踊りから生んだものだ。潮陽英歌のもっとも早い流派だと言えよう。中板:槌の長さは57センチメートルで、遅板より短くて、快板より少し長い。技法には5、7、8、10、11、l3でそれぞれ構成して、一組ごとに2回から3回まで360度に槌を回ることがある。ダンスのステップは大きい軍馬は基礎で、肩を並べて外横に槌を回転すると言うやり方は普通だ。軽やかで、活発な太鼓や銅鑼と組み合わせる。出演するのは柔軟性が高い。行進しながら、出演することができる。そのうちで太鼓を打つ指揮者が宋江を象って化粧する。史料によると、当時、潮陽にはお寺などがたくさんあった。だから、中板英歌は民間の芸術や戯曲や武術の精華を吸収して形成したものだ。快板:槌は中板英歌より少し短くて、1。2尺だけだ。ハフのメンバーは手で鼓をとって、小さい太鼓のばちをとって掛けて打つ。銅鑼と太鼓が組み合わせるセットは潮州の大きい銅鑼と太鼓と銅鑼と大きいはつによって成り立っている。演技者は梁山好漢を象って化粧して、出演の形式や技法や組式やデザインは複雑だ。リズムは素早くて、柔軟性が高い。その上、後ろに舞台も設けいて軽い番組もやった。舞踊学やエコロジーから見れば、大南山地の人々の生活条件は苦難に満ちていて、労働負荷も重い。文化は乏上に、階級圧迫もひどくて、農民蜂起が頻発した。そのため、英歌はここに至ってリズムが早くなった。また社会やさまざまな文芸形式の発展と伴に、音楽や、戯曲や、民間舞踊や、武芸などがだんだん英歌に融かし入った。その上、外来の文化も流入してきて、ようやく快板の英歌を形成した。

  潮陽の英歌は威勢がいいので名高い。「中国汉族男子汉典型舞蹈」と呼ばれる。専門家達は潮陽の英歌の源についていろいろ研究したものの、定説はまだ出ていない。しかし、潮陽の英歌が、明の時代にすでに現れたということは認められる。潮陽の英歌の源と言うと、いろいろな言い方がある。

  一、中原の文化と海洋の文化の引き継ぎと変化によって、潮陽に山東から源を発したが山東と違う独特の臨海文化の雰囲気が作り出された。

  潮陽は昔から「文化古邑」と呼ばれる。県を設けられてからすでに1600年になった。潮汕地方に来た忠誠の官吏や文化人や国を愛する志士や有名な僧侶などは本当に数え切れない。中でも最も名高いのは唐宋八大家のリーダーである韓愈と南宋の民族英雄の文天祥と 唐の中期の霊山寺の大颠和尚だ。韓愈と大颠和尚が霊山に衣服を残すという話はだれでも知っている有名な「儒释结缘」の話だ。文天祥は蓮峰で足を止めて、「望帝舟石破天惊蔚成石莲花的传说の伝説は人々の中で広く伝わる。このほか、丘逢甲や戚継光や張魯庵や大峰祖師や林大春や蕭端蒙や周光镐などの有名な歴史の人物も潮陽に関わる。彼らは国を愛して故郷を愛して、潮陽の山水や風物を賛美する詩を残して、潮陽の各所の自然の景観に特別の意味を込めたほかに、潮陽の人々が中原からの優秀な文化を受け入れることを容易にした。要すると、どんな民間の芸術でも文化上の土台が欠くことができない。潮陽におけるこういう臨海の雰囲気は英歌の形成の要素といえよう。

  二、歴代の志士や豪傑は潮陽で感動に値する伝奇的なストーりをたくさん残した。潮陽の人々が 正義を尊んで、英雄の?特殊な性格を景仰する性格を育成してきた。

  宋の時代、文天祥は兵士を従えて、潮陽に転戦してきた。文天祥にとって、彼は軍を率いて南下して、潮陽のような 沿海の領土に集まる図挙は軍事の上の需要だけだかも知れなくいが、潮陽の人々にとって、心で永遠にそびえ立った輝いた石碑だ。文天祥は真の忠烈の士だ。宋朝はすぐ崩れることを知りながらも、依然として、国のために忠義を尽くした。その後、五坡岭という所で破られて捕虜になって、燕京で3年も拘禁しても、しっかりと屈服しないで、身で国のために身を犠牲にした。彼の国を愛する真心は人を驚かして鬼神をも泣かせて、長い間潮陽の人々の魂魄を揺り動かしてきた。潮陽の人々も昔からこういう正義を尊んで、英雄の?特殊な性格を景仰する性格を育成してきた。特殊な人文の環境は潮陽の人々の特殊な性格や受け入れやすくて特殊な芸術――英雄の歌を作り出した。

  三、山に寄りかかって海に臨むという自然環境と漁業や農業をやる生活様式によって潮陽の民衆は勇敢や剛毅な気質を備える。

  潮汕平野は山と海の間に位置して、広大で物が豊富で人口が多いので、あっさりして楽しむ民間の風俗を育成して、潮汐の上がり下がりの海によって落ち着いて剛直で気骨がある魂魄を精錬する。 潮汕地方の人人は普通柔らかったり、辛抱強かったりする性格を持つ。

  潮陽は潮汕平野の南端に位置して、海にのぞいで、長期にわたって波を迎えて、風害や海賊との戦いしてきた。こういう厳しい状況によって潮陽の人々はもっと厳しくて激しくて、強靱な気質や一人前の男のますらおぶりを備える。潮汕地方の人々は普通柔らかったり、辛抱強かったりする性格を持つが、潮陽の人人の性格というと辛抱強さのほうがもっと目立つ。潮陽人のこういう性格は民間芸術の風格でに充分に現れて、特色はとても鮮明だ。例えば、潮陽笛套大锣鼓は非常に素晴らしい。英歌舞も大変豪快だ。潮陽の人人の剛毅な性格が英歌舞踊を豊かにして充実させたのだ。

  潮陽の英歌には、遅板、中板、快板の三大分類があるが、遅板の慎重にせよ、中板の優美にせよ、それとも快板の勇猛にせよ、いずれにしても、厳しい環境でさっぱりして、悠然としている精神状態の表れだ。こういう精神状態は中華民族が昔から権威や武力でも屈服させ得ない困難を恐れず勇猛に進むという民族精神と中身が大同小異だ。英歌の勢いは潮陽の人人が厳しい環境で鍛えてきた剛毅な性格を含める。

  四、潮汕地方には祝日や祭式にイベントがたくさんある。中でも、潮陽の英歌は魔よけといい縁起なので桁外れに好まれる。

  潮汕地方の人々は神々を信じる。全国で神々を祭る習慣は260種で、潮汕地方の習慣は200種に達するという。種類が多くて「老爷」と総称された神々には聖母や昔の賢人や有名人の馬や土地の父や3山の国王や関爺や玄天の神などがある。祝日に祭りをする習慣は潮陽にも盛んだ。潮陽で双忠烈の士への祭祀は他の所で見られない習慣だ。そのほか、さまざまな祝日は数えないほど多い。例えば春節や元宵節や清明節や端午の節句や中元(死者を祭る日)や中秋節や重陽節や冬至など。時々、新しい廟や仏像(あるいは旦那さま)などのために祝いすることもある。潮汕地方の祭祀の儀典で、普通、二つのイベントが欠かせない。1つは芝居だ。もう1つは英歌だ。潮陽で、英歌は主要なイベントと見られる。ここからして、英歌舞の陣容や気勢や無事な幸福への祈りなどは 平凡な大衆にとって心の、満足といえよう。人々はどちらの神でもこんな素晴らしい祭祀の場面を拒絶することができないと信じる。英歌舞が古代傩舞から源を発して、内容が祭祀と関係があるという言い方もある。いずれにしても、英歌舞の主体が暴虐を取り除き善良な民を安んじる梁山泊の英雄と豪傑だ。これは潮陽の民衆と見なして長期の祭祀活動の中で英歌に対して内容から形式までの最優秀選択だ。邪気を追い払うことと、凶悪に迎祥の福を迎えたのが神を祈るを除いて償って心理と関係がある。

  五、潮陽の英歌が南派武術、潮劇、潮汕地方の民間舞踊、潮州の音楽どの地方芸術の精華を吸収して、この集体広場舞踊の容姿を多彩にさせる。

  指摘すべきなのは、潮陽の英歌の形成は普通の芸術と同じように「簡単だ――繁雑だ――簡単だ」という三つの段階を経た。今の西岐英歌と永豊英歌はダンスを重視して、後ろの舞台の戯曲を省略して、いっそう精錬になった 。その容姿の多彩さと見切れない立派さは遺憾なくて集中的に足取りと図形で体現している。

  潮陽の英歌は海門蓮花峰が南シナ海浜に荘重に立っているように常に私達を誇らしくさせる。潮陽はどうしてこのようなすばらしい舞踊に盛んに行われることができ(ありえ)るか?彼女は蓮花峰と同じように、古くから上品で美しく満にあふれていてまっすぐにそびえている。細かな追及する必要はない。まさに歴史がなかったら未来がないというように、英歌舞の過去を追跡するのは、まさにもっと良い生態環境を創造して、英歌舞により美しくてよい未来に発展させるからだ。蓮花峰のように潮陽の英歌舞をお祈りして、代々甘やかしてしかし潮陽大地の上でまっすぐに立つ。