百数年前、中原の古漢楽は広東の東部などの辺境の山岳地帯まで(へ)広く伝わって、そして客家人で流行った民間音楽や朝廷音楽などと溶けあいた。それによって独特の趣がある音楽流派を形成して、広東省の三大音楽タイプの一つとなった。
広東漢楽の命名
歴史上、漢楽には様々な呼び方があった。例えば、「国乐」や「中州古韵」や「客家音乐」や「外江弦」や「汉调音乐」や「锣鼓吹」や「打八音」など。1962年に第一回広州音楽会が行われた時に、多くの音楽家の検討を通じて、「広東漢楽」という名称が決められた。
広東漢楽の種類
広東漢楽は五つに分けられる。中には糸弦音楽(昔は儒楽あるいは清楽と呼ばれる)、中軍班音楽、八音、民間大鑼鼓と朝廷音楽がある。
広東漢楽の楽器
広東漢楽の伝統的な楽器は二つに分けられる。一つは文楽類だ。例えば、弦、胡、椰胡、低音の胡、笛、簫の笛、チャルメラ、笙、月の弦、蛇皮線、洋琴、琵琶、箏など。もう一つは武楽類だ。例えば、正板(太鼓)、副板(太鼓)、小太鼓、太鼓、伴奏用の太鼓、小さなはかり、小さいはつ、碗の銅鑼、つける、銅鑼、小型のどら、銅鑼、大きい銅鑼など。
広東漢楽の故郷2004年に、広東省文化庁は大埔县を広東漢楽の故郷に指定した。
広東漢楽は広東省の民間音楽の一種として、自分なりの完全な体系や芸術特色を持っている。広東漢楽の伝統的な楽器は二つに分けられる。一つは文楽類だ。例えば、弦、胡、椰胡、低音の胡、笛、簫の笛、チャルメラ、笙、月の弦、蛇皮線、洋琴、琵琶、箏など。もう一つは武楽類だ。例えば、正板(太鼓)、副板(太鼓)、小太鼓、太鼓、伴奏用の太鼓、小さなはかり、小さいはつ、碗の銅鑼、つける、銅鑼、小型のどら、銅鑼、大きい銅鑼など。広東漢楽はプログラムリストも豊かで、演奏の形式も多種多様だ。80年代にすでに譜ができたプログラムリストが600曲あった。中で350曲の糸弦音楽と60曲の中軍班音楽と120曲のチャルメラの曲調と60曲の民謡があった。中には中原の宮廷音楽や古代の音楽の特色を持った曲もある。例えば中軍班楽曲の「大楽」や糸弦音楽の「南進宮」;七弦琴の曲から進展変化したり模倣したり作られた曲もある。例えば《渔樵問答》;もともとは琵琶の曲に属した曲もある。例えば「浪淘沙」;芝居の曲調に属する曲もある。例えば「得勝令」;民謡、俗謡から転化した曲もある。例えば、「剪剪花」。糸弦音楽の曲には「」と「長調」がある。長調と言えば68板の曲を指す。ほかは全部串调に属する。広東漢楽には「硬線」と「柔線」がある。中軍班音楽の曲はその用途の性質によって礼楽、喜楽、祭祀音楽、俗謡の吹奏などいくつかの種類に分けられている。
広東漢楽は広東省や客家人の華僑の住んだ所で広く流行った。初めは広東省の東部や福建省の西部や江西省のの南部などに広く流行った。客家人によって周囲に拡散して、広東の北部や東江流域あたりに至った。台湾にも大埔、蕉嶺、梅県、平遠、饒平から移っていく客家人があって、演奏の漢楽は国楽と称される。福建省南部では今漢楽の愛好者がまだたくさんある。彼らは漢楽を雅楽とよぶ。東南アジアのインドネシアやシンガポールやマレーシアやタイなどにある客家人の会館でアマチュアの漢楽活動が時々行われる。
広東漢楽は長い歴史を持っている。漢民族が南に移すことに従って、4世紀の魏晋の時代から、漢民族には何度もの大規模な南遷があった。さらに13世紀に宋が亡くなった前後、南遷の規模は史上最大だ。南に移す漢民族は広東の東と福建の西と江西の南で居住する。地元の人人は彼らを“客家”と呼んだ。客家人は異郷の習わし、また、古代の中原の音楽や文化を持ってきた。「中州古調」と「漢皐古譜」は代々伝わったの古い楽譜だ。このように、広東漢楽はすでに1600年余りの歴史をもった。たとえ宋が亡くなった前後から計算し始めるとしても700年余りの歴史があった。
明嘉靖36年(1557年)に「大埔県誌」には祭祀礼楽の欄を設けて、詳しく琴、瑟、钟、磬、笙、簫などの楽器を記した。そして神を迎え送りしたりするときに使われる5曲の「钟、呂」文字で作った古い楽譜も付け加えた。民間で、明崇禎の晩期、大埔楓朗人の羅淑予は山に潜んで、毎日胡弓で伴奏したり本を読んだりして楽しむ。乾隆の元年に、明通进士の大埔百侯人の楊纉烈は海南瓊山書院で授業をす時、明昌塔に登った。その伝記には「时柳叶徐鸣,月色如霜,回斋援洞箫奏《水龙呤》一弄别去時」と書いてある。これは「儒家の音楽」と称される。中軍班音楽となると、民間の大銅鑼と太鼓と八音などは乾隆の10年(1745年)の《大埔の県誌》の巻の10「民风?立春」に「立春先一日,各里社戏剧、鼓吹以逆土牛,农民视牛色辨雨吻」と書かれている。鼓吹中軍班音楽と八音と銅鑼と太鼓の通称だ。朝廷の音楽と言えば、唐にお寺と僧と尼がすでにあった。地元の民俗や風情に適応するため、仏陀の曲は民謡、民謡を吸収して、そして、同時に中軍班音楽の芸人にチャルメラで伴奏してもらった。こういうやり方はずっと踏襲きた。
清朝末期から抗日戦争にかけて、広東漢楽はもう一般的な音楽形式となった。さらに都市と町には固定的な音楽組織が現れた。この時期に“儒家の音楽”は以下の特徴が持った。
一は漢楽を演奏してまた兼ねて皮黄を歌ことだ。漢楽と漢劇の音楽は相互の促進を得る。
二は研究に取り組んだことだ。20年代から、銭熱儲(大埔人)はよく「スワトウ日刊新聞」に「漢調音楽」についての評論を発表した。民国は22年(1933年)に「公益社劇月刊」が発刊し始めて、11号発行した。有名な漢楽の大成者の何育斋さんは、約百首の伝統の生糸弦の曲を整理して、段落を明記して、演奏の中のカナダを小さな字で偏旁に記述する。记谱法は前と比べるとすでに改善した。
三は生糸弦の曲の空板の出現だ。百年前の楽譜と今世紀の楽譜を比較すると、前者のフレーズは板の中で(つまり小さなことの第1がダウン?ビートをする)文字の発音があるが、後者は空板になって、例えば「翠子登潭」、「将军令」、「有缘千里」など。これは音楽の芸人が演奏の中で更に再創作して認められたものだ。
4は楽譜の資料が次々と出版したことだ。例えば、万川(昔、大埔は万川と呼んだ)の晋陽志楽士によって編纂さらた「琴学指南」は石le(シンガポール)と盛印務局のより民国の22年(1933年)に出版した。中に「出水莲」や「小杨州」などの42曲が入っている。民国の23年に出版した「星洲客属总会国乐部五周年纪念集」に200曲近くの谱がつけてある。そして条理を付ける。その年、大埔の陳嘯虎の編んだ「国楽譜」も出版した。45曲の譜を収めた。抗日戦争の前夜に、兴寧国楽社によって石版印刷で出版された「国楽譜」には約100曲の譜を収めてある。これらの出版物は広東漢楽の伝承に大きい役割を果たした。
5は大衆の民間音楽組織を作り上げたことだ。例えば、潮州の「扬風国乐社」;大埔の「同益国乐社」、「百侯儒乐社」、「同艺国乐社」;スワトウの「公益社」、「以成社」;西河の「保定国楽社」;梅県の「芸光国楽社」;兴寧の「兴寧楽社」;広州の“潮梅音楽社”など。この時期、漢楽が栄えていることがここからしてわかる。
六、広東漢楽の専門家の饒淑枢は民国16年(1927年)に二胡から作った提胡に成功した。提胡の持つ音色はしなやかで美しくて重厚なほかに、音域は広くて、広東漢楽の演奏にもっと適したので、二胡に取って代わった抗日戦争の後で、人の生活は苦しくて、広東漢楽の活動は大いに減少した。
建国後、広東漢楽は重視されて、大幅な発展を辿った。楽社がクラブとなった。中でも、漢劇班社になったのもあった。いくつか中軍班の芸人も漢劇団楽団に参加した。活動は更に広範だ。特に1956年、饒叢挙、饒淑枢、羅九香を初めとしての“客家音楽のグループ”が、広東代表団に従って上京して第1回の“全国の音楽周”に参加して、成功した。演奏した漢楽は好評だ。そして《単点頭》、《昭君怨》などの10数曲がレコードに収められた。1959年、箏の名家の羅九香は西安に行って全国の箏の教材の会議に参加して、南派箏の代表と呼ばれる。1962年、16人の芸人によって成り立った漢楽チームが第1回の広城音乐花会に参加する時、特別興行の公演を行ってレコードを制作した。特に中軍班が演出した《饭后茶》、《嫁好郎》などの民間の習わしのすばらしさに満ちたプログラムリストは全国各地の音楽界の名人からの称賛を深く受けられる。その後、漢楽の人材を育成するために広東漢楽クラスももうけられた。1978年5月下旬から6月上旬にかけて広東漢楽グループは広東省による音楽ウェイクに参加して、影響深かった。80年代以降、広東漢楽は新しい発展を辿ったほかに、たくさんの音楽資料や楽譜資料を出版した。例えば、1982年出版された「广东汉乐三百首」。
20世紀以降、広東漢楽の理論研究や作曲や演奏の上で幾人かの名人が現れた。例えば、何育斋、钱热储、饶丛举、饶托生、饶淑枢、罗九香、饶碧初、余敦昌、罗琏、管石銮、饶宁新、李德礼、张高徊、罗德栽など。彼らは広東漢楽の大成者と言えるように、広東漢楽の発展に全力を尽くした。 |